大分県ソーシャルフットボール協会指定強化選手・立野大河のコラム(仮)

大分県ソーシャルフットボール協会指定強化選手《TAIGA.》こと、立野大河選手の連載コラムです


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【連載第3回】挫折と苦悩、諦めと立ち直り(2024年7月5日更新)

こんにちは。こんばんは。TAIGA.です。
今回は、「挫折と苦悩、諦めと立ち直り」というテーマでお話しします。これまで、僕自身の自己紹介であったり、ソーシャルフットボールとの出会いと今についてお話してきました。その中で、僕自身が味わってきた挫折や苦悩、それらをどのようにして諦め、立ち直ってきたのかについて、詳しくお話ししようと思います。一部は、精神障がいと絡めてお話しします。

自己紹介でもお話ししましたが、僕が精神障がいの診断をうけたのは、24歳の時でした。それまでは、健常者と自覚して生きてきました。ただ、いざ人生を振り返ってみると、学生のころから、精神障がいがあるが故の挫折や苦悩はたくさんありました。学生のころは「どうしてこんな思いをしないといけないんだろう」と思っていましたが、診断されたことで納得のいったこともたくさんありました。そういったところを詳しくお話しします。

初めての挫折と苦悩

まず、初めての挫折と苦悩は、僕が中学生の時でした。
当時は、中学受験をして合格。都内の中高一貫の進学校に進学をしました。挫折と苦悩はいきなりやってきました。中学一年生の二学期の試験から、点数が取れなくなり、次第に授業についていけなくなりました。また、宿題の量が多く、手を付けられない結果、提出ができないことが始まりました。このことは、高校を卒業するまで続きました。ただし、世界史や日本史といった歴史の科目だけは、試験でも点数を取ることができました。

この原因は、ASDの「こだわりの強さ」と、ADHDの「集中力の欠如」が大きく関係していると、今では考えています。
ASDの人は、自分が好きだったり興味のあることに対しては、ものすごく熱中し深堀りができ、自分が納得するまで続けることができる一方で、自分が興味のないことにはとことん無関心、もしくは苦手意識を大きく持ってしまう傾向があります。僕自身が、歴史分野では点数が取れたのに、それ以外の科目は全く点数が取れず、授業にもついていけなかったり、宿題に取り掛かれなかったりしたのは、このことが由来していると考えます。
また、ADHDの「集中力の欠如」により、他の人よりも集中できる時間が少ないことや、集中しようとすると大きいエネルギーを必要とするため、授業中は眠くなってほとんど寝ていました。

この「勉強に対しての挫折や苦悩」で、まず勉強する事、点数を取ることを諦めました。当時の教員にも半ば諦められていたので、自分が頑張って嫌なことをしてまで、いい大学に行こうとは思いませんでした。また、宿題も答えを写したり、わざとページを飛ばして量を少なくしたりして、とりあえず出すことを優先していましたが、無理して全部の教科を出すことは諦めました。自分ができる範囲以外は諦めたことによって、教員から求められることもなくなり、良くも悪くも周りが無関心な状態を作ることができました。

新しい挫折と苦悩

中学二年生になると、新しい挫折と苦悩に出会います。
それは、周りの音がうるさく聞こえたり、他の生徒とコミュニケーションをとることが億劫になったことです。これも状態の善し悪しはありましたが、高校を卒業するまで続きました。これは、ASDの「感覚過敏」や「コミュニケーションの取りづらさ」が原因だと考えます。ASDの人は、音や光など、五感で感じ取れるものに対して敏感な一面があります。

僕の場合は、教室内での他生徒の会話が全て同じ声量で聞こえてきたり、教室内での匂いを感じ取って集中できなかったりしました。
また、コミュニケーションについては、自分からの話しかけ方がわからないことや、話しかけられても会話をうまく続けることができないなどがありました。当時はサッカーのクラブチームに入っていて時間がなかったことや、流行っているコンテンツには興味がなかったりして、周りとの話題がかみ合わなかったことも一つの原因だと思っています。

これらのことに対しては、自分の時間を最優先にすることにしました。
例えば、学校にいるときは無理して誰かと話すことはせず、小説を読んだり、自分の席で寝ていたりしました。自分の世界に入り込むことで、周りのことが少しだけ気にならなくなりました。もちろん、同世代との人間関係やコミュニケーションをとって得られる社会性は諦めましたが、学校にいる間の自分なりの過ごし方は確立することができました。

サッカーでも挫折と苦悩

小学一年生のころからやっていたサッカーでも、挫折と苦悩はありました。
まず、小学三年生ごろから小学五年生ごろまでは、かかとの慢性的な痛みに苦労しました。これは、かかと専用のサポーターや中敷きを使い、だましだましプレーしていました。また、当時住んでいた自治体の選抜のセレクションに、チームから推薦を受けて参加していましたが、小学三年生前期から、小学五年生後期まで一度も合格せず、自分よりも後にサッカーを始めたチームメイトにどんどん抜かされていきました。悔しい気持ちもありましたが、比較することはせず、できることを確実にやり、小学六年生前期に初めて合格しました。合格するまでに三年かかりました。自分が好きなことだったからこそ、途中で折れずに続けられたと思っています。

中学生時代のサッカーは、挫折と苦悩ばかりでした。
まず、チームの環境が自分には合いませんでした。暴言ばかりの監督やコーチ陣、規律が守れないチームメイト、それによる連帯責任と称した罰、環境に関していえば、全てが苦痛でしかありませんでした。
また、当時は一軍から三軍まであり、自分は行ったり来たりを繰り返していました。自分の実力が足らず、スタメンやベンチに入れない悔しさも経験しました。ただ、いいこともありました。自分の強みを見出してくれた監督や、それに伴いスタメンやベンチに入ることができたりと、いい評価を受けることもありました。当時は、学校に居場所がなくしんどかったことと、クラブチームの環境が良くなかったことが重なっていたので、どちらかで嫌なことがあったときは、もう片方に逃げることをして、うまくバランスをとっていました。

しかし、中学三年生の時に、それができなくなるほどの大きな挫折を味わいます。
それは、当時のチームの監督が変わり、新しい監督になったばかりのころでした。少し遠出の練習試合があったとき、僕は一秒も試合に出ることができませんでした。このことは、過去にもよくあったことでしたが、挫折は次のことが原因でした。
その時、他のチームメイトたちは、僕を途中で入れた方が試合の局面が変わると思ってくれていたそうです。ただ、そのうちの一人が、監督が発言していたことを聞いており、それを教えてくれました。それは、「あいつ(僕のこと)は、スタミナが無くて走れないから試合には出せない」ということでした。
正直、これは的を射た発言でした。僕自身、自分のスタミナのなさは、小学生のころから自覚はしていましたし、練習時の長距離マラソンも、ほとんど後ろの方でした。ただ、それでも前の監督は、自分の長所を正当に評価してくれていました。それが、監督が変わったことで、評価されなくなり、さらには短所に目を付けられ、「試合には出せない」とまで言われてしまいました。このことが大きな挫折になりました。

「スタミナは、そんなすぐにつけられるものではない」と思った自分は、当時の監督が発言した内容は、事実上の戦力外通告だと捉えてしまい、そこから「いくら練習に参加したところで、自分は使ってもらえない」と思い、中学三年生の一年間はチームの活動に参加しませんでした。言い換えると、サッカーすることを諦めました。もちろん、行かないことがいいことにつながるわけもなく、練習や試合がある日に家のいる自分に対して、父は「なんで行かないんだ」といった小言を言ってきました。ただ、自分としては、自分にとって先がないチームの活動に参加するよりは、家に居て父の小言を耐えた方がいいと判断しました。

苦悩がたくさんあった大学生時代

大学生時代では、苦悩がたくさんありました。中学生時代に引き続き、人間関係構築の難しさや、興味あることとないことの差が大きいことがありました。
特に、興味のあるないについては、座学での講義や実習、社会福祉士の国家資格の勉強などに大きく影響しました。当時は、スクールソーシャルワーカーになるために大学に入ったので、子ども関係の福祉に対しては熱があったものの、それ以外の障がい・介護・老人・貧困といった分野はあまり興味がありませんでした。また、国家試験では福祉に関することではない分野や教科も試験の内容に入ってくるため、なかなか手を付けられませんでした。

これらのこと以外の苦悩としては、とにかく忙しかったことを挙げます。
忙しいことは決して悪いことではありません。ただし、大学生になると、自分で講義のスケジュールを組んだり、バイトを選んだりと、自分の生活を自分で選択するようになります。自分で選択していく中で、自分が抱えられるキャパシティを越えてしまう生活を選ぶと、日常生活に中で時間が無くなり、若いからこそできることの経験ができなくなってしまいます。そうなると、忙しいということは悪いことになると思っています。
大学三年生から四年生にかけて、僕は学校・実習・早朝の清掃バイト・夜勤のバイトと掛け持ちしていました。ある時は、「早朝の清掃バイトに行き、終わったら学校、その後夜勤のバイトに行き、次の日夜勤終わりのまま学校」なんて日もありました。休む時間がなければ、当然心身に影響が出ます。

こうなった原因は、障がいの特性も大きく絡んでいると考えています。
まず、発達障害の人は、先のことを考えるのが苦手です。計画を立てたり、今やっていることがこの先どのように変わっていくのかを予測することが苦手であり、今まさに楽しいか辛いかといった目先の感情や利益を優先してしまいます。その結果、無理をして症状が悪化したり、仕事等を続けられなくなったりしてしまいます。
また、僕の場合は、躁状態も絡んでいたと思っています。発達障害も双極性障害も、大学生時代に診断を受けていないですが、躁状態だと十分に休んでいなくても活動的になり動けてしまったり、色んなものに手を出したりします。僕の場合は、夜勤のバイトをやった後に、そのまま学校に行き、そのあとに実習などに行ったりもしていたので、かなり活動的だったと、今振り返ると考えます。
また、躁状態の時は、やっていることが楽しく感じられたりもするので、無理を続けてしまう、もしくは自分でコントロールが出来ないといった難しさもあります。自分が今躁状態かどうかは、気分の波を可視化できるグラフを用いて、自分の状態をこまめにチェックすることや、周りの人達がブレーキ役になったり、他の人からどう見えるかを直接聞くなどして、工夫をしながらコントロールしていくと良いと思います。

就職してもついて回る挫折と苦悩

大学を卒業した後、無事に目標であったスクールソーシャルワーカーになることができましたが、ここでも挫折と苦悩はついて回りました。
特に、この社会人時代に味わった挫折や苦悩は、今現在も解決していないことがたくさんあります。

まず、職場の他の人たちと雑談ができませんでした。
仕事に関する話はできても、プライベートや自分のことなどを自分から話すことができませんでした。「仕事している中、話しかけてもいいのだろうか」「お互いに合う話題がわからない」といった気持ちが先行していました。
これは、学生時代から続くASDの「コミュニケーションをとることが苦手」に由来していますし、他にも自分以外の同期がおらず、他の人たちが皆先輩だった環境も影響していたと思っています。

また、デスクでの業務の際や、会議に際に眠くなってしまうことも良くありました。
これは、睡眠障害が関係していると思います。
また、ASDの「自分が興味関心ないことには集中できない」ことも関わっていたと思います。そして、業務がマルチタスクであったり、やることが多いがゆえに残業したり無理をしたりしていました。

社会人にとっては当たり前なことですが、発達障害の人にとっては「白黒思考・0、100思考」が多く、普通の人よりもエネルギーを多く使ってしまいます。「全部今日のうちにやらないといけない」「不備や漏れがないようにしないといけない」といった気持ちが強く、業務をうまくこなしていくことが難しいのです。

また、社会人にとって重要で不可欠といっていい「報連相」にも苦労しました。
僕の場合は「何を報告し、何を連絡し、何を相談すればいいか」がわかりませんでした。
これは、コミュニケーションの難しさと、ASDの「他人の立場になることが苦手」が関係していたと思っています。相手の人が、「どんなことを報連相してほしいのか」を、全く想像できませんでした。

休職期間中にもあった挫折と苦悩

社会人二年目の春に体調を崩し、休職後に退職をしたのですが、この休職期間中にも、挫折や苦悩はありました。
特にこの期間は、病状が一番悪かったため、そもそも布団から起き上がれず何もできない日が続いたり、睡眠がうまくできなかったり、食事をとることさえ難しかったりしました。

こうした中で、一番問題になったのは、金銭管理ができないことでした。
学生のころから、お小遣い制ではなく、必要な時に親に言ってお金をもらっていました。また、親の金をくすねて、大きな金額を短い期間で使い切ったりもしました。
社会人時代も手取りでもらった金額以上のお金を毎月使ってしまい、収支でいえば赤字でした。それでも、生活ができていたので、自分の中で問題意識はありませんでした。
しかし、この休職期間中に、病状が悪かったことも作用し、約二か月半で当時の貯金を全て使ってしまいました。

発達障害の人は「数字の管理が苦手」と感じています。時間が守れず遅刻する、次の日予定があるのに早く寝ようとしない等、時間やお金といった数字を自分で管理するのが難しいと思っています。
また、躁状態の時は、多額のお金を使ってしまう、時には借金までしてしまうことも良くあります。
ADHDだと「多動性と衝動性」があるため、じっとしていられず外に出たり、衝動的に何かしてしまうこともあります。

なにかに夢中になったり、衝動的で活動的になったりといったことが、あまりよくない方向のベクトルになってしまうと、生産性がなく、ただお金を使いすぎてしまう傾向にあると考えています。

少しだけ自分でできないことが多いだけ

さて、長々と自分語りをしていきましたが、ここからが本当に伝えたいことです。

精神障がいは一見すると障がいを持っていないように見えます。四肢が欠損しているわけでもなく、杖や補聴器といった機械等を付けているわけでもなく、気持ちや感情の波があるので、動けるときは普通に動くことができます。
おそらく、精神障がいを持っている人でも、相手が精神障がいを持っているかは、ぱっと見で見抜くことはできないでしょう。経験している人ですら見抜くことができないくらい、認識しづらい障がいなのです。

そもそも障がいをどう捉えるか。
僕は「周りの人と比べて少しだけ自分でできないことが多いだけ」と捉えています。ネガティブでもなく、ポジティブでもありません。
ただ「できないことが少しだけ多いだけ」なんです。

この「自分ではできないこと」をいかにできるようにするかに、焦点が行くと思います。
ただ、自分一人の力でどんなに頑張っても、できないことはできないです。それが現実です。
そして、そのことをネガティブに捉えたり、自分を責めてしまったりすることもありません。それは、至極当たり前なことなんです。

では、どうするか。
まず、できないことを自分でできるようにすることは諦めましょう。「できないことはできない」と割り切ることで、自分を責めることがなくなり、気持ちに余裕ができます。
そして、自分ができないことは、周りのできる人にお願いをしましょう。決して悪いことではありません。

例えば、足を骨折したとします。その状態で何も支え無しに立ったり移動したりすることはできません。ただ、松葉づえや車いすがあれば、足を骨折していても立ったり移動したりすることはできます。
自分ができないことを他人にお願いするのは、このことと全く同じではないでしょうか。

あなたがいればできるかもしれない

そして、精神障がいを持っている人が周りにいる方、一人でできないことが多いと「自立(自律)できていない。甘えだ。」と思うかもしれません。
精神障がいの当事者である僕からすると「本当にできない」んです。できるのに、わざとやっていないわけではないんです。

自分一人ではできないことも、あなたがいれば、支えてくれれば、できるかもしれない。松葉づえを使ったら立てるように、あなたがいればできるかもしれない。
もしできたら、精神障がいを持っている人は成功体験をすることができ、自信がついて、もっと他のことにチャレンジできるかもしれない。
この繰り返しで、できないことを一つずつこなしていき、大きな問題の解決に向かえるかもしれない。

全ては可能性の話です。
必ずしも支えてくれたからといって、その期待に応えられるわけではありません。
ただ、支えてくれる人がいないと、この可能性は発生しません。

もともとができないわけですから、仮にできなかったとしても「仕方ない。チャレンジしただけえらい。もう一回一緒に頑張ってみよう。」と、一緒に転んで一緒に立ち直ってください。精神障がいを持っている人が「頑張ろう」と思える環境や人間関係が、本人の課題解決や成長につながると、僕は思っています。



さて、今回は「挫折と苦悩、諦めと立ち直り」についてお話ししました。
自分の体験談と障がいの特性を絡めているので、障がいを持っている人も持っていない人も、何か発見できる内容になったのではないでしょうか。
もし、これを読んだあなた自身が、なにかを見つけてくれたら嬉しいです。

次回は、TAIGA.の趣味に関するお話しをします。少し長めだったり、深い内容が続いたので、くだけた内容にしようかなと考えています。

それでは、また✋

TAIGA.



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