大分県ソーシャルフットボール協会指定強化選手・立野大河のコラム(仮)

大分県ソーシャルフットボール協会指定強化選手《TAIGA.》こと、立野大河選手の連載コラムです



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【連載第1回】自己紹介(2024年6月19日更新)

こんにちは。初めまして。TAIGA.です。
これから、ソーシャルフットボールのことや、障がいについて等、様々なことを発信していきます。

さて今回は、初の記事ということもあるので、TAIGA.のこれまでについてお話しします。
簡単に言ってしまえば、自己紹介です。

手のかからない子だった?

1997年5月7日、東京都のとある病院で生まれました。母が言うには、小さいころは手のかからない子だったそうです。三歳から保育園に通うことになるのですが、当時は登園時に「ママと離れたくない」と号泣しながら発狂し、五歳になるころには帰る際に「まだ、もっと遊びたい」と言って、これまた号泣していました。本当に手のかからない子どもだったのかは、自分ですら疑問に思います、、、。
また、小さいころは体が弱く、よく喘息になっては入退院を繰り返していました。そんな保育園時代ですが、周りの友達にも恵まれ、不自由なく楽しく生活できていました。

卒園後は、地元の小学校へ入学しました。また、このタイミングで、地元のサッカークラブに入り、本格的にサッカーを始めました。小学生時代は、勉強もできるし運動もできました。風向きが変わったのは、小学四年生のころです。母が中学受験をさせたいとのことで、学習塾に通うことになりました。日中は学校へ行き、夜は学習塾、土日はサッカーをする日が続きました。「他の子たちは遊んでいるのに、自分は遊ぶ時間すらない」と思い始めたのもこのころでした。サッカークラブでも順風満帆とは言えず、挫折したりもしました。自分が挫折した体験は、また今度記事にしようと思います。

電車に乗っていられない

無事、中学受験に合格した自分は、都内の中高一貫校に進学をします。また、サッカーもセレクションに合格し、小学校の時に入っていたチームとは別のチームでやることになりました。中学生時代は、小学生の時と180度変わりました。勉強にはついていけず、友達も作れず、サッカーのクラブチームではうまくいかず、何もかもから逃げ出したくなりました。それでも、何とかやれることはやっていましたが、中学三年生の秋ごろ、突然起き上がれなくなりました。めまいと吐き気が止まりませんでした。起き上がることができ、登校するために電車に乗っても、学校の最寄りの駅につく前に、めまいと吐き気で電車に乗っていられなくなり、途中の駅で降りてしまうことが起こり始めました。このとき、はじめて精神科にかかることになります。ただ、原因は不明、診断もつかずでした。一か月半経ったある時、体調は急に良くなりました。時間経過とともに治ってしまったので、その時はあまり深く考えていませんでした。

スクールソーシャルワーカーになるんだ!

中高一貫校に進学していたので、高校受験せず、そのまま高校に上がりました。サッカーはクラブチームを卒業し、高校の部活に入りました。勉強は相変わらずついていけず、友達などの人間関係もあまり良くありませんでした。ただ、サッカー部では、これまでのクラブチームの経験を活かして、戦術を考えたり、練習メニューを組んだりとコーチ的な役割を担うようになりました。このころから、サッカーをすることが自分の生きがいになっていきました。高校一年生の冬、たまたま見ていたニュース番組の特集コーナーで、スクールソーシャルワーカーについて特集されていました。そこで、「自分は将来スクールソーシャルワーカーになるんだ!」と思うようになり、この後進学する大学も決めました。

高校卒業後は、自分が決めた大学に進学することになりました。その大学は、社会福祉の単科大学であり、スクールソーシャルワーカーの先駆者となった方が講師をしている大学でした。自分は、「スクールソーシャルワーカーになる」という目標をもって、大学に進学したため、それ以外のことは極力避けるようにしました。友達も多くは作れなかったし、サッカー部も一年で辞めてしまいましたが、自分の目標以外のことは、興味があまりなかったので、何とも思っていませんでした。大学三年生あたりから、実習とアルバイトと学校で多忙を極めていました。この頃に何度か体調を崩していて、精神科に再びかかるようになりました。ただ、症状が長引かなかったので、一、二回の受診しかしませんでした。

憧れの職に就いたけれど

大学卒業後は、社会福祉士の国家試験に落ちてしまいましたが、実習でお世話になった自治体で、非常勤公務員としてスクールソーシャルワーカーの職に就くことができました。憧れていた職に就くことができましたが、実際やってみると現実は思い描いていたものとは全く違いました。スクールソーシャルワーカー内での同期はいない、学校の先生や心理士など、他職種との連携は必須なのでコミュニケーションが求められる、原則の勤務時間では終わらない仕事の多さ、実動で子どもや保護者と会う際は一人のため実質一人職場などなど、様々な困難が待っていました。仕事をしているうちに、子どもと直接関わる時間だけが楽しみになっていき、それ以外の全てが嫌で億劫になっていきました。

2年目になると、スクールソーシャルワーカー内でのサブリーダーという立ち位置になりました。自分自身では、「2年目にしては荷が重すぎる」と思っていましたが、1年目の時から先輩たちに「2年目でサブリーダーになることも全然ある」と散々言われていました。それだけ自分に期待してくれていると捉えていたので、断ることができませんでした。サブリーダーになると、業務が増えました。そのおかげで、2年目に入ってから出勤した日は毎日残業でした。もちろん、自分だけではなく、リーダーや他のサブリーダー全員が残業していました。「疲れたので帰ります」とは、言えない状況でした。そんな生活が長いこと続くわけもなく、2年目の5月末に体調を崩しました。ただ、これまでも同じ時期に体調を崩していたので、時間が経てば勝手に良くなると思っていました。しかし、時間が経っても良くならず、精神科を受診することにしました。

そして、そこで初めて診断がつきました。「適応障害」でした。出勤日を減らしたり、出勤時間を短くしたり、様々な工夫をしましたが、症状は一向に良くならず、2年目の9月で休職をしました。休職をする1か月前には、当時の主治医の勧めもあり、発達障害の検査も受けていて、そこでASD・ADHDを持っていることが判明していました。休職の期間は2ヶ月が限度でしたが、2ヶ月全て休んでも、症状は良くなりませんでした。また、非常勤公務員は1年毎の契約で、毎年契約を更新するのですが、自分は休職前に休んでいた分と、休職分を合わせると、次の年に契約を更新するには、あと2日しか休めないことが判明しました。自分の体調や症状のことを考えて、2年目の12月に退職することを決めました。自己都合による退職でしたが、事実上は自治体からのクビ宣言でした。

全て無くなってしまった

正式に退職した後は、休職中に申請していた傷病手当金で生活をしていました。しかし、休職中に当時の貯金を全て使ってしまったり、感情の起伏が激しいとのことで、双極性障害の診断がついており、傷病手当での生活も安定はしませんでした。
自分が今まで培ってきたことや、当時持っていたものは全て無くなってしまいました。東京での生活は不可能と判断し、実家のある福岡県に移ることにしました。

何とか生きています

現在、福岡に移住して約3年が経ちました。東京で生活していた時ときと比べると、できるようになったことがたくさん増えました。また、福岡にてソーシャルフットボールと出会い、それが今の生きがいにもなっています。もちろん、まだまだできないことは多いですし、自分が一人暮らしせざるを得ない状況になったとき、おそらく今の自分では生活していくことはできないでしょう。それでも、今は周りの人たちに支えられて、何とか生きています。


長々となりましたが、TAIGA.の自己紹介は以上です。どんな人生を歩んできたのかは、何となく掴めたのではないでしょうか。
次回は、「ソーシャルフットボールとの出会いと今」について、発信します!
お楽しみに!

TAIGA.



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